図書館巡り/日記とつぶやき
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西濃地域の湧水と自噴井戸について、ちょっとした調査を始めている。
その基礎資料として「何があるのか」を調べるために、
図書館を2件回った。 大垣市図書館と、岐阜県図書館である。
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大垣市図書館では、検索にかかりながら見つからない資料がいくつかあった。
専門の資料が見つけにくいものがある。
それでも、予定していたものの大半はあることがわかった。
また、予定していたとおり、そろわない情報があることもわかった。
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湧水の「がま」を大垣では河間と書くそうだ。
湧いた水をはじめ、水路は城周りを何重にも囲むように、そして大垣輪中の中を主に南北に何筋も流れる。 土地改良の前は、掘田が南部を中心に広がっていたが、乾田化でなくなり、町中の水運とともに、農業としての水運もなくなった。
そういう歴史はそれなりにわかるのだが、
自然現象としての「がま」は、どこにあったのか、そしてそれらはいつから吹かなくなったのか、というのは全体としては書かれるものがあるが、分布や時間的な経過についてわかるものにはなかなか行き当たらない。
地下水位のデータもあるが、近年の井戸データの多くは100m級のものであり、すでに利水としてあまり相手にされていない40m前後の第一帯水層、その下の第2帯水層のデータが乏しい。(古いもの、特に、昭和30-50年代のものはそれなりだ。)
わかっているのは、浅い地下水ほど水位は地表付近まで回復しておらず、第3帯水層と呼ばれる100m級の深い井戸での回復が、この数年の自噴井ブームの背景となっている、ということである。
地下水の情報、
井戸の情報はそれなりなのだが、
どちらも、もとからある湧水、「がま」の水源とは異なる地下水を相手にしていることになる。
それは、問題が利水に焦点が当てられていたことにある。
地下水が下がるそれは過度な揚水、利水にあった。
だからそれを制御する協議を地域でしなくてはならない。
・濃尾平野全体(東海三県)
・岐阜県
・西濃地方
というクラスで、それぞれに、である。
しかし、自然環境としての場としてのガマがどうであったか、どうあるべきか、と言う点は議論されることなく、土地改良によって徹底的につぶされ、場がなくなり、残ったものの湧水がなくなれば、これまたつぶされた、というシナリオが描かれることになる。
よって、情報不足は、
・ごく近年の浅い被圧地下水の水位の状況
・がまがどこにあり、どのような状況だったのか。
という点にある。これらを近年までの部分を網羅した資料があるのか、ということだ。
今のところ、手が届くところにはなかった。
最終手段としては、年初に書いたように、土地改良前の土地宝典(納税関係も含め)から池の場所から起こすことも考えられる。
しかし、そこまでしても、浅い被圧地下水位の上昇も考えようとしなければ、
つまり
市、地域、生物学者の皆さんが原風景に近い状況への復活までをも望んでおらず、
湧水自体は深い地下水の自噴環境で代替できればそれでよい、と思っているとすれば、
ガマがどうだったか浅い地下水はどうなのかということにこだわることは、意味がない仕事、ということになる。
(過去を振り返る調査ということの位置づけにしかならない。)
そういうことがわかっている、ということと、
何を調べるべきか、ということを
報告書を書くことになるだろう。
暗に「湧水の回復に向けては2つの道がある」ということも込めて。
代替手段でよしとするか、原風景を取り戻すことも考えるか。
ーーー 水準測量を実施
大垣輪中の北東辺の堤防。北向きに見ている。
堤内側(左)のがまの水位から見て、堤防の高さは7mほどある。
部分だけ見れば「横堤」の役割と同じで、
揖斐川・平野井川の氾濫から土地の低い大垣側を防御する堤防だ。
右は平野井川(揖斐川の支川)だが、対岸の左岸に堤防はない。
もっぱら城下町を囲む輪中としての役割のようだ。
この川と、ガマのある池の水位差を計った。
結果としては川の方が2mちかく低く、
明らかに不圧地下水とは関係がない、ということがわかった。
この池と、ほか2点の湧水・自噴井の水質が、他と違っていたので調査してみたのである。
ーーー
西之川ハリヨ池広場
電力盤のメータは、ぐるんぐるん回っていた。
看板によれば、自噴のガマと、ポンプ揚水が、 ブレンドされているらしい。。。
3箇所出ているところがあったのだが、どれがガマなんだろう。
======= テーマが変わります ひとりごと
=== 役所の入札
役所の納入物資の入札制度にオークション(競り下げ)制度を導入したところ、一部で劇的に値段が下がった効果がみられた、という記事があった。 一定の時間内で同一業者が何度も入れ札することができる仕組み、ということらしい。
単純な物資納入であれば、それもよいかもしれないが、地域の企業を育てることにはならないだろう。つまり、公共入札のオークション制度は、スケールメリットの生かせる規模の大きな全国規模の企業に有利に働き、地域の企業を排除する、そういう制度である。
このことは、市場経済の淘汰という言い方ができるかもしれないが、地域の経済を育てる方向とは逆の作用に荷担することでもある。
納税者のため、という言い方になるのだが、回り回って地域の働き手のためにはなっていない。 それであれば、地域は東京からより多く搾取する権利がある、と主張してもよいような気にもなってくる。
ここには、
・地域の公共でありながら、地域の企業を排除していくことはいかがなものか、という観点と、
・何が企業にとって公平か、フェアなのか
という観点があるだろう。
スケールメリットにかかわらず、値段が決める。
多くの方は、市場経済なのだから仕方ないと言うと思うが、
地域経済の空洞化を促進することに対して、地域経済がどう防衛するのか、
いつもそこに疑問を持つのだ。2つの道がある。
グローバルな市場経済=スケールメリットが有利に作用する経済の中で何とかしようとするのか、
それとも、そうではないあり方を模索するのか。
たいていの人は前者の中で、ということを言うが、短期的にはそうだろう。
しかしそのままでよいのか、ということを問いたいのだ。
ーーー
地方税を払ってもいない企業にのうのうと仕事を持って行かれるのを抑制する仕組みは見かけ上あるが、どれほど効いているのかはよくわからない。
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それを、公共事業にも展開しては、という意見があるが、ここには深刻な問題が潜んでいる。 それは質の保証である。
仕事をとるだけとって、どれだけの質を持った仕事をしてくれるか。
そこを削って、生き延びるためだけに仕事をとる企業が列をなしている。
その中で、質の評価は実質のところでどれだけできているのか。
そこが見えないなかで、簡単に展開を、と言ってよいのか、と思う。
しっぺ返しを食らうのは、納税者/住民なのだ。
さらには、
そういう仕事を引き受けた企業の社員たちは大変なことになっているにちがいない。
質の低下の背景にもなってしまう。そのことに、いい加減気がついて良さそうなものだ。
労安側からのチェックで、仕事の質を労働環境側から、底の保証をすることも考えてよいように思うが、簡単ではないだろう。
どこも、評価が問題になるのだろう、といつもの結論にたどり着いてしまう。
そう思いながら記事を読んだ。
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