2012年1月29日 (日)

図書館巡り/日記とつぶやき

=== 一部修正しました1/31 ===


西濃地域の湧水と自噴井戸について、ちょっとした調査を始めている。

その基礎資料として「何があるのか」を調べるために、
図書館を2件回った。 大垣市図書館と、岐阜県図書館である。

ーーー
大垣市図書館では、検索にかかりながら見つからない資料がいくつかあった。
専門の資料が見つけにくいものがある。

それでも、予定していたものの大半はあることがわかった。
また、予定していたとおり、そろわない情報があることもわかった。

ーーー
湧水の「がま」を大垣では河間と書くそうだ。

湧いた水をはじめ、水路は城周りを何重にも囲むように、そして大垣輪中の中を主に南北に何筋も流れる。 土地改良の前は、掘田が南部を中心に広がっていたが、乾田化でなくなり、町中の水運とともに、農業としての水運もなくなった。

そういう歴史はそれなりにわかるのだが、

自然現象としての「がま」は、どこにあったのか、そしてそれらはいつから吹かなくなったのか、というのは全体としては書かれるものがあるが、分布や時間的な経過についてわかるものにはなかなか行き当たらない。

地下水位のデータもあるが、近年の井戸データの多くは100m級のものであり、すでに利水としてあまり相手にされていない40m前後の第一帯水層、その下の第2帯水層のデータが乏しい。(古いもの、特に、昭和30-50年代のものはそれなりだ。)

わかっているのは、浅い地下水ほど水位は地表付近まで回復しておらず、第3帯水層と呼ばれる100m級の深い井戸での回復が、この数年の自噴井ブームの背景となっている、ということである。

地下水の情報、
井戸の情報はそれなりなのだが、

どちらも、もとからある湧水、「がま」の水源とは異なる地下水を相手にしていることになる。

それは、問題が利水に焦点が当てられていたことにある。
地下水が下がるそれは過度な揚水、利水にあった。
だからそれを制御する協議を地域でしなくてはならない。
・濃尾平野全体(東海三県)
・岐阜県
・西濃地方
というクラスで、それぞれに、である。

しかし、自然環境としての場としてのガマがどうであったか、どうあるべきか、と言う点は議論されることなく、土地改良によって徹底的につぶされ、場がなくなり、残ったものの湧水がなくなれば、これまたつぶされた、というシナリオが描かれることになる。


よって、情報不足は、
・ごく近年の浅い被圧地下水の水位の状況
・がまがどこにあり、どのような状況だったのか。
という点にある。これらを近年までの部分を網羅した資料があるのか、ということだ。

今のところ、手が届くところにはなかった。
最終手段としては、年初に書いたように、土地改良前の土地宝典(納税関係も含め)から池の場所から起こすことも考えられる。

しかし、そこまでしても、浅い被圧地下水位の上昇も考えようとしなければ、

つまり

市、地域、生物学者の皆さんが原風景に近い状況への復活までをも望んでおらず、
湧水自体は深い地下水の自噴環境で代替できればそれでよい、と思っているとすれば、

ガマがどうだったか浅い地下水はどうなのかということにこだわることは、意味がない仕事、ということになる。
(過去を振り返る調査ということの位置づけにしかならない。)

そういうことがわかっている、ということと、
何を調べるべきか、ということを

報告書を書くことになるだろう。


暗に「湧水の回復に向けては2つの道がある」ということも込めて。

代替手段でよしとするか、原風景を取り戻すことも考えるか。



ーーー 水準測量を実施

大垣輪中の北東辺の堤防。北向きに見ている。

Dsc05040

Dsc05039

堤内側(左)のがまの水位から見て、堤防の高さは7mほどある。


部分だけ見れば「横堤」の役割と同じで、
揖斐川・平野井川の氾濫から土地の低い大垣側を防御する堤防だ。
右は平野井川(揖斐川の支川)だが、対岸の左岸に堤防はない。
もっぱら城下町を囲む輪中としての役割のようだ。

この川と、ガマのある池の水位差を計った。
結果としては川の方が2mちかく低く、
明らかに不圧地下水とは関係がない、ということがわかった。

この池と、ほか2点の湧水・自噴井の水質が、他と違っていたので調査してみたのである。

ーーー
西之川ハリヨ池広場

Dsc05037

Dsc05034

Dsc05035_2 

電力盤のメータは、ぐるんぐるん回っていた。

看板によれば、自噴のガマと、ポンプ揚水が、 ブレンドされているらしい。。。

3箇所出ているところがあったのだが、どれがガマなんだろう。



======= テーマが変わります ひとりごと

=== 役所の入札

役所の納入物資の入札制度にオークション(競り下げ)制度を導入したところ、一部で劇的に値段が下がった効果がみられた、という記事があった。 一定の時間内で同一業者が何度も入れ札することができる仕組み、ということらしい。

単純な物資納入であれば、それもよいかもしれないが、地域の企業を育てることにはならないだろう。つまり、公共入札のオークション制度は、スケールメリットの生かせる規模の大きな全国規模の企業に有利に働き、地域の企業を排除する、そういう制度である。

このことは、市場経済の淘汰という言い方ができるかもしれないが、地域の経済を育てる方向とは逆の作用に荷担することでもある。

納税者のため、という言い方になるのだが、回り回って地域の働き手のためにはなっていない。 それであれば、地域は東京からより多く搾取する権利がある、と主張してもよいような気にもなってくる。

ここには、

・地域の公共でありながら、地域の企業を排除していくことはいかがなものか、という観点と、

・何が企業にとって公平か、フェアなのか

という観点があるだろう。

スケールメリットにかかわらず、値段が決める。

多くの方は、市場経済なのだから仕方ないと言うと思うが、
地域経済の空洞化を促進することに対して、地域経済がどう防衛するのか、
いつもそこに疑問を持つのだ。2つの道がある。

グローバルな市場経済=スケールメリットが有利に作用する経済の中で何とかしようとするのか、
それとも、そうではないあり方を模索するのか。

たいていの人は前者の中で、ということを言うが、短期的にはそうだろう。
しかしそのままでよいのか、ということを問いたいのだ。

ーーー

地方税を払ってもいない企業にのうのうと仕事を持って行かれるのを抑制する仕組みは見かけ上あるが、どれほど効いているのかはよくわからない。

ーーー

それを、公共事業にも展開しては、という意見があるが、ここには深刻な問題が潜んでいる。 それは質の保証である。

仕事をとるだけとって、どれだけの質を持った仕事をしてくれるか。
そこを削って、生き延びるためだけに仕事をとる企業が列をなしている。

その中で、質の評価は実質のところでどれだけできているのか。
そこが見えないなかで、簡単に展開を、と言ってよいのか、と思う。

しっぺ返しを食らうのは、納税者/住民なのだ。

さらには、
そういう仕事を引き受けた企業の社員たちは大変なことになっているにちがいない。
質の低下の背景にもなってしまう。そのことに、いい加減気がついて良さそうなものだ。

労安側からのチェックで、仕事の質を労働環境側から、底の保証をすることも考えてよいように思うが、簡単ではないだろう。

どこも、評価が問題になるのだろう、といつもの結論にたどり着いてしまう。

そう思いながら記事を読んだ。
ーーー

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写真と雑日記

ーーー 夜のお散歩

パソコンとテレビばかり見ていたら頭が痛くなってきた。
そして、少々体重が増えてきてしまった

しゃっきっとするために、
夜のお散歩に出かけた。

携帯で撮影した夜景。
Sn3r0005

東海市から南区にかけての工業地帯。製鉄工場は24時間稼働。
土曜の夜も、いろんな音が聞こえてくる。
Sn3r0012_2

Sn3r0013

そしてここは聚楽園の大仏様。
補正なし。
Sn3r0010
うーむ、真っ暗だ。

photoshop様のレベル補正で。
Sn3r0010r

Sn3r0014

なかなか不思議な感じだ。



=== ひとこと

===  細かいことですが。

震災後の国の会議の議事録が残っていない、という問題が国会で取り上げられ、ニュースにもなっていた。

そして、ラジオでは行政の関係の専門家なる方が電話でコメントしていた。
公文書法等に基づくまでもなく、当然議事録は残されなければならない。
残っていないことは悪いことである。そこまではいい。

ではどうして残らなかったのか、どうやったら残すことができたのか。

この専門家なる方は、職員がこの法の精神が徹底されていないから、そのような意識を持たせる事が大事だ、とのたまわった。


これには、全く吹き出すしかなかった。
メディアはなぜこの人に聞いたのか、と思う。

ーーー

当時、行政でも混乱した状況であったのは、誰の目にも明らかだろう。
そして、それをいいわけにできないというのもわからないではないが、

では、その認識を持っていたとして、残せたかどうか、ということについては誰も触れていない。

行政の会議の議事録作成に誰が携わっているのか。

国会では専任の職員がいるだろうし、そして常に速記者なりがいる。
これは外部と契約しル場合でも、常に契約はあるだろう。

では、行政の各省庁ではどうか。

通常、速記やテープ起こしの業務は、結果として外注していることになる。

たいていの場合、ある業務についてその仕事すべてを省内の人間だけで進めるには人・労力が足りないから、その仕事のサポート業務として、コンサルタントなどの企業に出している。

議事録を自分たちで起こさないなぞ、けしからんという方もおられるだろう。
しかし、議事録おこしをやっている暇があったら、事を進める手配をする方に人員は割かれなければいけない緊急事態だったのは明らかである。

いまは随意契約がほとんどできないから、そうした業務(たとえば、行政の外部識者が入った会議とその関連業務)でも、サポートの業務についていちいち入札に出すことになり、その仕事の本体が進み始めるまでに絶望的な時間がかかるのである。

そんな入札をやる暇があるはずもなく、
職員だけですべてを進める時間もない。
また、人手は圧倒的に足りない。

その状況で、精神論だけで事がなんとかなったはずだ、というご意見には全く賛同しかねる。

この人は現場を理解していない。そう思った。


===
ではどうすればよいか。

根源的には、緊急時対応のためには、組織にはいくらかの余裕が必要だと言うことだ。

いつでも業務サポートに出動できるだけの、雇用を増やすのか、
そうした事態でも出動してもらえるような契約を外に出しておくのか。

いずれも、お金が必要なことなのである。

もちろん、お金や人や契約が出そろっていても、事態は混乱していただろう。
しかし、議事録は残ったかも知れない。

そのあたりの背景は、想像に難くない。


いや、実はスムーズに議事録が出てきたりして、
まさか、「こういうときのために契約してました!」
なんて言うことになっていたら、その方が不自然だろう。
むしろ、無理無理外にお願いをして(ただ働き)、あと付けで契約というのがよくありそうな話である。しかし、随意契約ができないのだから、禁じ手ばかりということであろう。

このような緊急事態で随意契約も許されないという意識が働くのは、本当に役所的であり、牧歌的である、と思う。

しかも今の日本でそれをやったらおそらく、後で批判されるのだろう。

その雰囲気事態が平和ぼけの日本を象徴し、被災者から見れば、そんなことで災害対応は進むのか?と疑いをもたれても仕方ない。


そんな風に思ってしまったニュースだ。


議事録が残らないことは悪いことである。
しかし、残らない原因は取り除かれていない。
そのことに誰が何を言うのか、ということではないか。

===
   

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2012年1月26日 (木)

追い込みと追い込まれ

===日記

1月も末に向かい、あっという間に、今年もあと340日を残すのみとなった。

年度も終わっていないと言うのに、
非常勤講師の先生や、自分の授業など、
次の年度の話をいろいろと決着しなくてはいけない。

タイムライン化したメールボックスでは、2,3月の日程調整が取り合いをしている。

その争いがどうなるかと、言っていると、

まったく時間の進む速度が違う世界から、
おじいちゃん先生が「これ、パソコンでなんとかなりませんか?」と画像処理の依頼に訪れる。

それが終わって、またパソコンに向かおうとする刹那に、
学生たちがノックして卒論原稿を持ってオフィスになだれ込む。

まっかっかにしたのだが、ようやく全員の学生のストーリが完成し、
5日後の締め切りには間に合う見込みが着いてほっとする。

またパソコンに向かえば、
やはりタイムライン上では、年度末までのいろんなイベントの案内やら日程調整やらがまだ舞い込み続けていた。

今日は1限から4限まで全力疾走であった。

昼間は、ゼミ、期末試験、授業(ポスターセッション評価)、授業(あるガイダンス、主役)、と4連投。
そのあとの出来事である。

ーーー

さすがにへばったなぁ、と今日は早々に帰途についたのであるが、

結局、喫茶店に寄って、先日ある研究会で思いついた水文量の空間代表値の誤差問題の計算の続きをやり始めてしまった。

結局、解析的な計算は完了し、自分としてはすっきりして、「あとはモデルやデータで計算例をいろいろやってみるのみ」となり、研究ノートか、論文にするまでの見通しが着いた。

こういう日になんだかなぁ。。。
他にやりたくない仕事があると、こういうのは進んでしまうんだなぁ、
と思ったのである。

=== 質問に答えること。

今日実施した期末試験の一つが防災の科目である。

自分以外の先生も出題していたので、
硬軟織り交ぜた形で、かつ、回答に時間が結構かかる試験になった。

文章で答えさせる問題を出した。
「○○について、課題と解決の方向性について述べよ。さらに自分の考えがあれば最後に述べよ」というような感じだ。
模範解答が一つにはならない、そういう問題である。

このときに問われているのは、いくつかある。

自分が何を具体的に学んだか、ということと、
自分が何を考えたのか、ということと、

があるが、この後者の段階で何を、どう書けばよいのか分からなくなる学生はかなりいる。
(理系ならば学歴の問題ではない。そういう経験・トレーニングが少ないのである)

さらに、文章で書ききるためには、
聞かれたことに、どう答えれば答えたことになっているのか、
ということを、考え実行する、

そういうことを問われている(それも試験されている)ということもあるのだが、
そのことに気がついていない、あるいはそれは試験されているのではない、と思っている者も多くいる。

要素を押さえていれば、文として説明できていなくても、なんとかなる、と思っているのである。

これは、完全に他者依存型のタイプであり、
「世の中は、自分のために用意されているのがふつうである」と無意識に思いこみ、そうでないとき=自分にやさしくない時に、行動がとれなかったり、怒るだけだったり、という反応をするタイプである。

これは、学生に限らない。
実際には大人たちに多いのである。

そういう意味では、学校にはもっとWildnessを導入してよいと思う。

つまり、不親切な環境を与える、ということだ。
その中で対応できない者は社会で対応できないのだから、教育の効果を外に主張できないのである。

これは大学に入る以前の時点である程度獲得すべき性質のものであるが、
受験産業も含め、そういうものを排除しなくてはならない、と思い込んでいるようである。

自己弁護すれば、
「いい加減な先生ばかりいる大学でも、授業がまわっている」状態であれば、
それは社会が多少はうまく回る証拠であるかもしれない。

そんなことを少し思ってしまった。

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2012年1月24日 (火)

東京出張:環境の研究と震災復興

ある外部研究助成の2次審査のために、東京に出かけた。

=== 写真

行きは品川・新橋を経由した。
新橋の様子。
Dsc05022

遠目でみると、待ち合わせというよりは、汽車をガードしているように見えなくもない。
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東京は雪が残っていた。
Dsc05026
今日はスーツだったので、滑る靴を履いてきてしまった。
歩くのには、注意が必要。


=== 助さん、格さん

私は主役ではなく、脇役である。

プレゼンはお魚のM先生が15分間一人で行い、その後質疑応答が10分。

3日前に風邪のピークだ、とおっしゃっていたM先生は、
風邪がなおらないどころか、ますますひどくなっていた。
それでも話はちゃんとされた。

私ともう一人のK先生(お魚)の出番があるとすれば、質疑応答だけである。
(この10分のために、同道しているのである。)

出番がなかったら、新幹線の中で仕事をするために700kmの旅をした、ということになるのだが、そうはならなかった。

実際には自分も多くの質問に答え、補足し、二人は一応「助さん、格さん」を演じた。

ちょっとしゃべり過ぎたかもしれない。
質疑応答するより、議論した方が早いのではないかと思ってしまった。

待たされている時間は就職の面接のような気分で、
20年前の国家1種の2次試験を思い出してしまった。

なかなか新鮮だった。

===

テーマが難しかった。
津波と湧水環境ということである。

震災と環境、ということで、
A: 環境という科学的な(学術研究としての)成果と、
B: 震災復興への還元
の両方の側面を持つ。

長期的にはどちらも意味があるのだが、

短期的にはAの成果を上げる(津波が来てそのあと生息場や生物に何が起こるか)ということになるだろうし、

中長期的には、

Bの還元(たとえば、まちづくりにおける湧水環境の位置づけとそのための整備など)

または、Aのさらに長期的な生物・生態系の歴史のなかでの一つの証拠としての位置づけ、

など、時間スケールを変えても、いくつもの意味を持つ。



これは、審査する方もちょっと大変だろうと思った。

どちらの側面も重視するのか、一点突破が原則と思うべきか、など、審査員によってもその立ち位置が違うし、チームとしての立ち位置も定まらないだろう。

無矛盾性を最大限評価するならば、一点突破がよいに決まっているが、成果やその後につながる話を重視するならば、いくつかの側面で主張できる方がよい。

そのあたりは、ちょっと審査する側にも同情する部分もある。


「それで我々はどういうスタンスで、審査すればよいので?」

===

終わった後の三人の会話はおもしろい。

知っている先生がいたとか、質問がどうだったとか。
この審査員はここにこだわっているようだとか、
どういう部分は伝わっただろう、とか。

審査員が審査されるのもおもしろい。
いや、これまたちょっとかわいそうだ。

質問が評価されるからである。

今度の卒論発表会でも、おもしろすぎる質問が連発されるんだろうなぁ、と思ってしまった。



=== 時速200kmのオフィス。

新幹線で、メールのやりとりをすべて済ませてしまった。
ブログも書いてしまった。

少し前に乗ったときよりは、新幹線のWiFi(無線LAN)はましだった。

今度乗っても、そうあってほしいものだ。

===

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よくわからない「賠償」

東京出張だ。
いまは新幹線の中。

団体さんが名古屋で降りたあとなので、あまり込んでいない。
すばらしい。

Dsc05019

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=== つぶやいた。

原発・放射能問題で、その被害の賠償をすべていったん東京電力に求める、ということが行われている。
それはわからないでもないのだが、

それを理由に、電力価格の値上げがまかりならん、という意見がこれまたまかり通っている。

これがよくわからない。

ーーー

前提条件1:民間会社としての電力会社に賠償を求める、

そういうことであれば、値上げは当然のことである。
いくらコストを切り詰めても、圧倒的な賠償額の前に、値上げは必然だろう。

それを無視して、けしからんと言ってもどうしようもない。
そうでなければ会社をつぶし、電力供給をつぶすということになり、値上げどころではない。

これは、民間会社であれば当然の理屈だ。

ーーー
前提条件2:国の後ろ盾がある、という条件。

これには2つの意味があるだろう。

(1)電力供給は、絶対になくせないサービスであるから、なくせない。
電力供給というサービスを最後は守らなくてはならないから、国の後ろ盾が必要だ、という考え方。

(2)原発による電力供給は、国策で進められた。だから、原子力施策で起きた問題を国が後始末をすべきだ、という考え方。

概観すれば、国は、

後者のために、電力会社の賠償に連帯責任は負っており、
かつ、
前者は死守しなくてはならない。

これらは別々のことだが、プレイヤは同じだ。
だから、
時々メディアでは別々の議論が扱われ、かつ、異なる立場の論説が同じメディア上に現れるのことがあるが、
これはおかしいことに気がつかなくては、と思う。

そうすると、電力会社に何もかも賠償を、とその金額を増やせば、国が支出することになる。これは、国家公務員ががんばって自分のお金をはき出すのではなく(やったとしてもたかが知れており、長期的に意味があるのであって)、結局税金から支出するのであるから、国民の負担になる。

ここのところは、いま予想される賠償額では逃げられない。

ところが、なぜかメディアも国民も、最終的に国がその賠償を保証するということは「国民に負担が求められている」という直接的な言い方をしない。

国が賠償する、と言う言い方で止めてしまう。国とは誰のことなのか。総理大臣ではないだろう。

ここがわからないことだ。

ーーー

つまり、どちらかの前提条件をとっても、電力ユーザか、全国の納税者か、どちらかがどれだけか負担することになるのだ。

どうして、メディアも世論も、電力ユーザも、経済界も、このことから目を背けようとするのだろう。

現実逃避としか思えない。

しかし、メディアはそういう声ばかりを届けようとする。
私には理解できない。

ーーー
結局は、原因と負担の分配ということになるのではないか。

どういう理屈と、原因の重さと、支払い能力で、最終的に国民につけが回ってくるのか。
どういう理屈と、原因の重さで、支払い能力で、電力ユーザにつけが回ってくるのか。

話はそれるが、
国家賠償、あるいは災害での見舞金のようなものは、
納税者に一部の負担が回ってくる。
これは、原因に直接関与しなくても、である。

しかし、間接的には、国民全体がその国の政府や施策を支えてしまった、ということを原因とすることもできるかもしれないし、単に、納税者や国民は国の構成員として当然の負担を負うという考え方にあるのかもしれない。

(この国に生まれてきたのは自分に原因はないから、何も負担を求められないはずだ、ということはできない。さらに詳しく考えれば、それは必要なものや文化的な生活に貢献する便益を提供されている、という意味と、積極的な施策についても、すむだけで無条件に負担がある、という意味と両方あるから、前者を肯定し、後者を否定する人たちは多いだろう。しかし、それを主張できるのは、非常に若い世代だけである、と思う。)

電力ユーザは、安い電力を享受してきた。その機会費用(?)の差としての便益を、間接的に受けたし、経済界は積極的に受けたと言ってよいだろう。

「私は原子力を差し引いた高い電力価格で支払う意思があったのだ」と主張する人はいるかもしれないが、そんな話を事故の前に聞いたことはない。

この安い電力も、立地に際しては別途税からの支出が地域に投下されているから、実際には電力会社と国(税支出)の分配によって、見かけの安い電力価格が実現できたのだ、ということもあるが、強権国家だったら地域にごまをするコストとしての国の支出は少なくてすんでいるのであるから、そこは見方次第、地域のエゴ次第、ということでもある。

ーーー
話を戻すと、

小さな賠償のコストならともかく、圧倒的に大きな額の賠償は、負担をどこに求めるのかということであり、
なるべく公平で実現可能な負担(ここがミソ)と言うことであれば、誰にどれだけの原因・負担能力があるのか、ということを突き詰めることになるのだろう、と思う。

納税者・国民に原因はないのか、ユーザには原因を求めないのか。

そこは哲学のにおいがするし、
本をよく読む人は、誰々が言う何々の考え方AとBの綱引きだ、という議論になるのだろう、と思う。

私は本を読まない。
自分で考えるだけだ。
読むならば、自分で考えてから読むだろう。

みんな、どうしているのだろう、と思う。

===

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出会ってしまったときの行動

今日も一日、いつものようにどたばたと過ごす。

午前、午後と来客・打ち合わせが続く。
夕方には会議。
途中でメールのやりとりや、2日後の打ち合わせに向けた準備など、昼間は埋まる。

17時半過ぎに会議が終わり、
迷ったあげく、そこから水質分析を始めた。

今も、分析中。
イオンクロさんは、時々ご機嫌斜めである。
どうあってもエアバブルが発生してしまうようだ。

それでも3日前よりは順調で、
合間にお仕事を少しづつしている。

いまはその「ほんの合間のひととき」である。


ーーー 出会ってしまった時の行動

その分析が始まって少したって落ち着いたところで、
長期戦を覚悟し、コンビニに夕ご飯を買いに行った。

ほとんど暗くなっており、雨が降り始めていた。

その帰りに交差点で、事故が起こった直後のところに出くわした。

タクシーとバイク。

バイク直進、タクシー右折で左側前方にバイクがめり込み、ライダーはタクシーを飛び越して5m以上前方で倒れていた。

おそらく、バイクは、後方の車よりかなり先行して走っており、
その車たちのライトと路面反射でハレーションに近い状態で、バイクを不認識、あるいはバイクとの距離感を認識しにくい状況だったのだろう、と想像する。
右折信号がないので、信号の変わり目での衝突かもしれない。
自分もよく通るが、右折レーンもなく、若干危険な交差点である。

まだ、目撃者らしき人が事故を通報しているところであった。

運転手だけでなく、通りがかりの学生たちと、その場に居合わせた2,3台の別の車のドライバがいた。

3人ほどが交通整理にかかっていた。おそらく無関係な人たちである。

しかし、まだ事故直後でしかも暗くなっているために、異常を明確に知らせる手段が少ない。

交差点は、ある方向にだけ(しかも一方向のみ)がふさがっていた。片側二車線だが、2車線ともふさがっている。その方向への進路はとれない。特にその方向へ左折する車にとっては状況がすぐにはわからない。直進車も後方はわかりにくい。

まだ警察は到着していないから、一般人が手を振っているだけでは何が起きたか、というのも難しい。

ーーー

その場に出くわした人たちは、どういう行動をとるのだろうか。
特に事故を見てしまった人は。

最初の数人は、119番通報したり、交通整理を買って出たり、状況に関与しようとした。
いずれも若い人たちばかりだった。

互いに声を掛け合いながら、
どの車にどう指示するかやりとりして、状況をコントロールしようとしていた。

私は、事故の瞬間を見ていない。
それでも、暗く状況がわかりにくいのは明らかな状況だったので、
自分の車へ行き、これらを現場に持って行き、
Dsc05017

旗は若者に渡し、三角表示板を立てた。
交通整理にコミットしようとしたが、コミュニケーションの相手が増えすぎない方がよいと考え、状況推移を少しだけ見て一度撤退した。

救急車、その後に警察が来て、少しはわかりやすくなり、タクシー・バイクが脇に寄せられて、20分後くらいには皆、お役ご免となり去って行った。

ーーー
おそらく、その場に出会ってしまい、

・車に乗ったままならどうするか、
・その横を歩いていたらどうするか、

さらには、そのときの事情により、変わるかもしれないが、
事故直後のまだ、何も制御されていない状況ならば、

放置して行ってしまうのは、私ならば難しいだろう。


しかし、すでに数人がコントロールしようとしている状況ならば、どうだろうか。

ーーー
このときの自分は、分析の合間だから、時間的には多少切迫している。
そして、すでに状況はコントロールされつつあった。
かといって、野次馬するだけの時間はそもそもない。

なかなか微妙な場面だったが、
その場をただ放置するのはどうだろう、と思って、できることはする、邪魔になることはしない、という行動を選択をした。

ーーー
かの若者たちはそうだったと思うのだが、

最初、事態が起きて、状況がコントロールされていないその場に置かれた。

まだ、誰もコントロールしようとしていない場に自分しかいない、あるいはあと数人しかいなければ、心理的に関与する以外に選択肢はない。

そして、その次に到着する者はどうするか。
この人たちの行動の方が興味があるかもしれない。

大半は通過する、野次馬になる。

しかし、現にコントロールしようとしている人たちの状況がどうなのかと、自身の事情の軽重により、行動は大きく変わるかもしれない。


このあたりの行動の分岐は、統計的にどの程度のものだろう、と思ってしまったので、このエントリに残しておこう。

===

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2012年1月21日 (土)

暴れるグラフ

日記。

このところ何かとドタバタした一日を過ごす。

今日の午後、メール処理など雑用を終えると、急遽企業から求人(この3月卒業向け)に訪れる。 まだ未内定の学生がいるので、ありがたい話である。 ついでに学生を紹介した。

そのあと、自分の仕事ができる、と思ったら、退官後、特任教授で来られている先生が、「パソコンが故障したので、別のノートPCを用意したのだが、ネットの設定、メールの設定、プリンタの設定などがわからない!と訪れる。

そりゃあ、全部わかりますが、私でなくてもよいはず。。。
これに20分ほどつきあって、ようやく解決。

自分の部屋に戻り、イオン分析(卒論ではない研究)のウォームアップを5分で済ませ、
学内会議へ。

Dsc05013

30分強で戻ってきたのが5時過ぎである。

そこから分析を始めるのだが、完全に「だだっ子」状態。
ベースラインは暴れまくる、校正ピーク検出しない、ピークはつぶれる。(校正の意味なし。)

その合間に、卒論の学生が原稿を持って訪れる。相談、赤ペン、を並行作業。分析が順調ならば、こんなに効率のよい時間の使い方はない。
ピークが検出できないとピーピー鳴る横では、全く落ち着いて頭脳作業はできない。

流量まで変えてようやく校正はできるようになった。

それでも、こんなクロマトグラムを見てしまえば、
Dsc05012


「もー、いや!今日はもう帰ろうか。。。」

そう言って、帰ろうとするととたんに
しゃきっとした計測ができてしまったりして、

まるでこちらの言うことを聞いていたかのようである。
それでも不調は続き、

結局二度計測のサンプルが多くなり、何をやっているのかわからない状態で、この時間になったのである。

諦めて、ラジオを聞きながら時間消費することにしたのだ。
NHKはネットでラジオを聴けるのだ。
Nhkam


それでも一応決着できたことにした。


ーーー
ここのところ、機器、機械、PCの不調につきあわされることが多い。
(先日は、スキャナが不調で、本当に困った。2時間も消費した。)


さあ帰ろう。。。夜の実験室は、なかなか不気味だ。
Dsc05014

===

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2012年1月20日 (金)

防災の授業

日記の続き。

今週は、後期の第14週目。来週が最終回か、または期末試験。

今季は週5コマの授業の担当があった。

今年初めて担当したのが、防災の科目である。

工学部にあり建設系・環境系の学科での都市防災の授業である。

問題は、その学生に教える、というのがなかなか難しかった。

ーーー まずは、教えきるには時間が足らない。

14回のうち7回を担当。

1回は、防災(減災)の考え方。
3回が、水災害の原因・現象(洪水、高潮、津波)
3回が、その他(ハードの設計、リスクの考え方、自助・共助・公助、意識・避難行動・情報伝達、行政と防災計画、災害に強いまちづくりなどなど)

結局、表面をなでるような話しかできない。
防災だけで3科目くらい、普通にできる。

ーーー 専門性とリンクを十分にとれない。
河川氾濫の周りをとっても、雨から河川流出、氾濫、の物理メカニズムと確率的取り扱い、防御構造物と機能と設計、その予測と情報伝達、というように、水理学・水文学・河川工学、など。そのフローを詳細に、定量的な取り扱いまで含めてやるには時間がないし、その基礎も教えきれていない。

ーーー 専門性という側面と、一般人という側面

むしろ、一般の社会人・住民に話す時の方が、少しは楽なのか、とも思う。

授業では、専門性とのリンクを意識しながら、内容を位置付けなければならない。

しかし、彼らが熱心に聞くのはむしろ、一般人としての自分のの問題としてとらえる場面のようでもある。

要するに、専門性の突入すれば眠くなるし、自分の問題だと思うと熱心に聞いたりしてしまう。

そんなことに気を使うのはばかばかしいが、このあたりもある意味では難しい。

ーーー

それでも、結構熱心に授業を聞く学生も多く、授業はやりやすかった。
今年は、授業での立ち位置を決めきれないまま走ってしまった。
来年は、今年の足跡を利用して、もう少しよい設計にしたいと反省したので、ここに書き遺しておこう。

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2012年1月19日 (木)

日記

ブログを書く、という意識すらなかった、この数日。

日記、つぶやきのエントリ。

=== 容量オーバー

予想はしていたが、平日の予定はほぼ詰まっている。
卒論の面倒を見ている時期になるので、見掛け上空いている時間も、本当は空いていない。

昨日、1件予定が重複しているのに気がつかず、仕事をパスしてしまった。
もとの原因は、メールの見逃しだ。
受信ボックスはツイッターのタイムラインのような状況になりつつある。
「後でもう一度読もう」と思ったメールを読まなかったのが原因だ。
放っておくと、そうしたメールはリストの下の方に行ってしまう。

忙しい時の合間に、メールソフトを開いたのがいけない。
(大抵は昼休みだ。)
そうではない時間ならば、リアルタイムに対応するのだ。
返事が必要ならその場で出し、予定を確定したなら予定表に記入、というように処理する。
それをしないで、リストの下の方に行ってしまった。さようなら~・・・

ーーー
その用件で、それではと打合せの時間調整をしようとして、当方の可能時間を先方に伝えてその返事を待つ間に、他の用事がその時間を先に埋めていってしまう。

昨日今日だけで、日程調整中にともなうバッティングが2件発生した。

ようするに、外部の仕事を引き受けすぎているのである。

しばらくは、極力断ることにしようと思う。
自分自身が作業をする仕事もNGだろう。

自分の研究がOUTPUTできていない。
事は深刻だ。

ひとりごとをつぶやいた。

=== メールと言えば。
この記事を読んで、ちょっと面白かった。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120118-00000306-wired-sci

おそらく、多くの大学の研究者は、メールでのやり取りのために、パソコンの前に座っている時間が、とても多いはずだ。特に外部とのやりとりの多いひと、社会とのつながりを持っている研究者はそうだろう。

しかし、それでいいのか、という疑問は常にあると思う。

上の記事は、それで「脱ネット」になろうというのではなく、

1対1、または1対2、3名、という狭いコミュニケーションで、不効率な電子メールというツールを使うより、
関係者にオープンな場でのコミュニケーションツール(twitterやfacebookなど)を使った方が、早い、

ということのようである。

みんなにわかるように発言する場という意味である。

なるほど、と思ったが、逆にこれは、日本の企業などの組織では簡単ではないと思う。

なぜなら、オープンになるのは、最後の場面で、その前のやりとりはクローズドで、という段取りでいくのが、スムーズだ、という仕事の習慣があるからだ。

あまり1対多数のやりとり(あるいは多数の中での発言)という状況が多くはない自分のような仕事では、その方法では時間効率はあまり変わらないように思う。

=== 「私は聞いていない」
朝日新聞のオピニオンの欄で、このタイトルで3名へのインタビュー記事の特集が載っていた。

『日本社会のあらゆる組織に突如現れる「聞いていないぞ!」の壁。』

2人の話が面白かった。

一人は、料理研究家の行正り香さんという方。
なぜこの人に聞くことになったのかはちょっと興味がある。

17年広告会社で海外とやりとりする仕事をしていたそうだ。

そうだ!と思ったのは、

日本で「聞いてないぞ!」が問題になる原因は、責任者があいまいであることにある、という話だ。
だからこそ「聞いてないぞ!」というボールが、全然関係なさそうなところから飛んでくる。それが、この国の組織での特徴である。

逆に言えば、欧米でも同じ言葉を聞くことはあるが、あちらでは責任の所在があらかじめ明確になるように事前に決めて契約などしているので、そのラインに乗っていない人から「聞いてないぞ」というボールが飛んでこない、あるいは飛んでくるはずがない、というのだ。

そして、そのラインに乗っている人が「聞いてないぞ!」と言ったときは、仕事上の本当の意味で深刻である、ということでもある。

ああ、わかりやすい。

さらに発展させれば、日本で「聞いてないぞ!」という声があさっての方からとんできたら、
「あなたは、この件に責任を持つ人なのか?」と聞いてやればよいのである。

日本の、平等な会議、というのは、その点で最悪である。責任が数十分の1づつに、分配されたりして、その数十分の1の人が「聞いてないぞ!」と言って、話がとん挫するからである。

ーーー
知事と県民の関係でも同じかもしれない。
ある懸案事項について、自分は理屈の上でAでよい、と思っているとする。
その責任は知事にあるならば、Bという意見が県民にあっても、Aとすることに責任を持てるのであるから、それでもよいはずだ。

ところが、Bという意見があるので、Aという選択肢はとらない、と知事が言うとする。

ではAが正しそうだ、という話はどうなのか、ということになって、責任を誰が持っているのか、分からなくしているように見える。

平板な民主主義的には正しそうな行為かもしれないが、
これは逆向きの責任転嫁・責任分散、と呼んでもよい。

////// ニュースより

=== センター試験

私は監督にあたっていなかった。本当によかった。
事前から大変なことになっているから、説明会には絶対に参加して!
と大学でもかなり注意が呼びかけられていた。

新聞を読んで、「ああ、本当だったのだな」と思った。

試験方式が変わることが報道されたとき、当初からかなり懸念の声、拙速ではないか、との声があったのは覚えている。その時の懸念がその通りとなったのだ。

個人的な感想から言えば、リスニングテストでも、こうした一斉の試験には適さないと思う。

リスクが大きいので全国統一の1回チャンスしかない試験では実施すべきではないと思う。
監督にも責任が持てないし、そもそも、「音が聞こえない」ということを証明できないこの試験方式は、試験自体が実施者・受験者の間で非対称な状況にある。

監督者の経験からすれば、こちらの方が恐ろしい環境である。

その上さらに、今回の方式である。

今回の変更についてはは、一度この方式に確定し、時間を適切に配分すれば、問題ないと思う。配布と回収の問題だからである。

初めての年であったからこそ、起こったことだと思う。
しかも、これだけの大事件になれば、かえって翌年以降は注意が効き、マニュアルも改正されるだろう。

ただ、タイミングを間違えたときの、公平性を保ったままの対応がほぼ不可能になる、という根源的な問題がある。(試験時間が変わってしまうからである。)

そこをどう考えるか、ということだろう。

ーーー センターか、大学か
センターの準備不足、という声が強い紙面は多いようだ。
センターのマニュアルや時間配分がよくなかったのも事実だろう。
かといって、ちゃんとやっている大学もあるのだから、大学側も問題を回避できたはずであるから、責任がある。

マニュアルを見ていないのでわからないが、あのマニュアルを最初から最後まで隅々まで読むのは苦労する。初めて監督をする人は、大変だと思うが、それ以上に、いままでやったことがある人の方が危険だ。

そう言う人が、説明会を欠席する状況が、一番危険なのだ。分かっているつもりになってしまうからだ。そういう人にはマニュアルを事前に読ませようとしても読まないケースがあるから、むしろ「どこが変わった!」ということを頭にいれこむことが大事だ。

だいたい、そういう仕事は大学人のような自由人に向いた仕事ではないのだ。
そういうと怒られるが、そういう人がいる割合は世間一般よりは高いはずなのだ。

だから、変化があったときに何かが起こる確率は高くなるのだ。
しっかりした事務官とカップリングさせないと、危険だ、と思ったりする。

前の大学で、実際にとんでもない助手がいたので、そう思う。
「お前はいない方がいい。」


=== 言わせていただきます。

=== 増税
電話で世論調査をした結果、過半数が消費税増税に反対だそうである。

これが世論だと言うならば、私は国民を全く信用しない。

自民党はかつて橋本政権がトライして、選挙で惨敗した。

それ以降、消費税増税とは縁切りし、
政府や国会は「検討する必要がある」という永田町用語で言う事実上の実施放棄をしてきた。

それは政権交代しようが関係なく、国民がそう応答するだろう、と政治の側は思い、メディアはそうではないの?という聴き方をし、国民はそのメディアの意図に沿って増税反対をしてきた、ということになっている。

ただ、この世論調査は電話をランダムにかける方式だから、どういうクラスタの人たちが応答したのか、ということを示さないと、全体像を表したことにはならない。おそらく家にいる人が多い高齢者層や女性が多くなると予想する。(情報は出ていない。)

ーーー
私は、時期を定めて、増税すべきだと思う。
上の世代から、より多く増税すべきだ、と思う。
単純な消費税では生ぬるい。
今5%増税しても、基礎収支がバランスするレベルにも届かない。

上の世代が生きている間に、その世代から増税すべきだ。
彼らは未来の世代からお金を奪ったのである。
適切な時期に増税せず、基礎収支を合わせることをしなかった。

「将来発展すれば税収は増えますよ」と本気で言っているのか。
そう言ってもう何年になるのか、100年戦争するような話を言うのである。

理想は上の世代からピンポイントで増税させることだが、
とりあえず消費税だろうが、所得税だろうが、なんでもいい。
まずは基礎収支を合わせなければならないのは、いつでも基本だろう。
理由を付けてやってこなかったのである。

国債について海外資本にトリガを持たせた途端に、国が破たん、ということは十分にありうるシナリオだ。その危険をどうしてわかろうとしないのだろう。

それでも世間は増税に反対とのことらしい。
だから私は国民を信用できない。

=== 政治  ~ おじいさんのひとりごと ~

解散、解散と、震災の後始末もおわっていないのに永田町は騒いでいるし、メディアも政局政局と、浮足立っている。東北の現状を見て、そう言っているのか、メディアもいい加減にしろ、と毎日怒るばかりだ。

党利、という内部組織の論理は、国や国会が機能していない現状の根源となっている。そもそも政党政治は仕事を進めるための論理でなければならないが、全く逆になっている。

非常時に、さらに非常時化させるような政党政治のありようが正しいはずがないだろう。

解散するなら、全党を解散していただきたい。

政治家個人同士が議論を通じて機能する体制は作れないのか。

国会を解散しても、仕事のできる人材は限られている。
それならば、非常時にはそうした人が機能する全体組織にすべきだろう。

そして、仕事をする国会、仕事をする政府に正常化させてほしい。

本当にそう願う。

===

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2012年1月14日 (土)

大槌町 残存する自噴井戸 調査結果

先のブログのエントリでも書いたが、連休に大槌町での自噴井・湧水の調査を行った。

大槌 自噴井戸調査 1日目
大槌 自噴井戸調査 2日目
大槌まち調査 3日目


3日のうち2日を、被災後も自噴し続ける井戸の

 ・存在の様子(写真)、
 ・その位置(GPS)
 ・水温(熱電対式水温計)

を、町方と安渡において、歩いて回って調べた。

位置の把握と優先するために、計測項目は水温のみとした。シンプルである。

しかし、なるべく正確な場所を確定し、現場の様子の写真との対応関係もつけられるように、としたために、時間がかかってしまった。

今日、手伝ってもらったおかげで、データ整理が終わった。



(1)本数  -----------
まだ見逃しているものもあると思うが、

生きている井戸は、136本。

H16のNPO「ぐるっとおおつち」の調査では140本あまりということで、 全部が残っているように見えるが、当時の資料でカバーされていない井戸が多数あることがわかっているので、単純には言えない。その対応関係は、これから時間をかけてつけていくつもりだ。


(2)残存井戸の分布と、水温の分布  -----------

結果はこの一枚である。

201201_5

国土地理院が被災直後に撮影した空中写真と比較するとよくわかるのだが、

・津波が通過し洗掘が卓越した場所では、井戸の残存は多い。
・土砂・瓦礫の堆積が卓越した上町・栄町西部、末広町・新町などの地域での残存は少ない。

水温の分布をみると、全体には9.5~12℃の範囲にあり、均一性が高い。

その狭い範囲の中での温度分布をみると、

・山田線を緩やかに北西から南東側にクロスするように、水温の高い細長い領域が分布している。その延長線上に安渡の自噴井戸もある。
・図書館南東側にある自噴井戸は、全体にやや水温が低い。
・他にも局所的に水温がやや低い場所がある。

ーーー
電気伝導度だけでも計ればよかったとか、サンプリングをとか思うが、言いだせばきりがないのだが、

今回は、その井戸自体を把握する調査ということである。

場所がわかれば、センサ計測での網羅くらいはできるかもしれない。

まちづくりとの関係を考えると、自分としては流量の実態を真っ先に把握したいと思っている。しかし、干満の影響を受けるため、これも簡単ではない。サンプリングは何日・人必要になるやら。。。

今後、どうするかは考えたい。

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